『百姓から見た戦国大名』黒田基樹

戦国時代は慢性飢饉であり、大名の他領への侵略は「生産」活動であった。そのような時代における中世の村は、今で言う国家みたいなもので、「生活」のために不可欠の単位であり、構成員の私権を制約する公権力であった。

戦争は村単位の紛争を解決するために行われ、結果として中世は領主から民衆までの多様な階層で、いたるところで合戦が繰り広げられていた時代であった。

合戦は、蒙った損害や名誉を回復する「相当(あいとう)」のために行われた。そのために、日常的に武器「兵具」を常備し、それを用いて争う。必然的に死者もでる。村の存続ための争いには、構成員に死をも強いるのである。このように村を、国家としてみることの意味と必然性があると説く。

戦争にあたっては他の村に援軍「合力」を求めた。村はいざというときのために攻守軍事同盟を結んでいるのである。中世の戦争は、「相当」「兵具」「合力」をキーワードとして行われていた。

この本では、これが一元化していく過程として戦国大名の成立をみる。


村の戦争は、領主の戦争に発展することがある。その関係で、村が、その権益を守ることができる存在である限り、領主を選ぶ。「村は次々と新しい領主を生み出していく」(p. 90)。領主側でも、「他の支配者を追放し、村から領主として認められることで、はじめて領主支配が成立する」(p.92)。これは、その領地が将軍から与えられた所領であっても同じ、軍勢を動員した進駐を要するのである。これが室町時代までの、幕府などの公権力の実態であったという。

家来も同様であった。一人の主人だけでは、進退を維持できなかったため、複数から保護を受けていた。


一方大名や国衆は、領域を支配する。これは紛争時の避難場所としての城の提供と、その普請のための労力提供という形から形成されてきたというようなことが書かれていたような。

そうやって成立した戦国大名においては、「家中」の紛争は自力での報復をせず「堪忍」、主家の裁断を仰ぐこととなる。自力による「相当」を抑制し、「兵具」「合力」は禁止されるのだ。(喧嘩両成敗も同じ理屈から導かれる)


この領国平和の論理から領国の一般の人々が、大名「国家」に直接奉公すべきとする、「御国」の論理が生じる。

戦国時代も末期になると、「村は、大名の存亡を賭けた戦争に際して、その領国に住んでいる、というそれだけで、大名の戦争に動員される事態に直面するようになった」(p. 202)。「「御国」の支配者が、その全域において平和維持、生存の保障の責任を負うことによって、「御国」に生活している人々に対して、「御国」の維持のための奉公が要求されるようになった(p. 203)。日本の歴史の中で初めて生まれた「御国」の論理であるという。これが生まれたところに、戦国時代における国家と村(民衆)との関係の特質をみることができる。


話を戻して、当事者の直接の合戦による紛争解決を抑制するための代替手段としては、目安制によって、直接、コネなしに統治者に訴えるシステムが形成されていく。実力行使から訴訟への移行である。

この延長上に、秀吉の「天下喧嘩停止令」が来るのはわかりやすい。

しかし、刀狩というのは、決して秀吉によって完結したものではないという。元和偃武によって社会の戦争状態が終わり、それにより慢性的飢饉から開放され、それにあわせて村々が、天下喧嘩停止を自ら遂行していく。藤木久志氏の『刀狩り』に詳しいそうだが、「兵具」を自ら封印していく過程であったのだという。言い換えれば、「人殺しの権利」を放棄し、それを支配者のみに委ねる社会の成立である。


今のわれわれの社会が「人工」のものであるという意識は、重要であるかもしれない。

百姓から見た戦国大名 (ちくま新書)

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