『海の世界史』中丸明

タイトルどおり、海からの視点、航海の影響という観点からの大まかな通史。粗筋的には知っているようなことが多かったが、上記視点からの整理という意味で、なかなか面白く読めた。

ただ、文章がふざけすぎていて、途中何度も放棄しかけた。内容的には悪くないのでなんとか読み終えたが、もう少し何とかならなかったものか。


例によって、以下備忘の抜書き:

シュメールにはじまるバビロニアの文明は、カルデア人によって継がれた。
カルデア人とは、純粋のユダヤ人をのぞくメソポタミア人をいう。シュメール化したセム系のアッカド人、アモル人も「カルデア人」に属することになるが、彼らがいかに星座と人間の関係を重視し、高度の天体理論を生んだかは、「暦」を意味するカレンダーの語源が、カルデア人Chaldeanに由来することをおもえばわかるだろう。(p.11-2)

その語源は月初めに呼ばわることにあったと読んだことがあるのだが、どちらが正しい?

しかし、ふしぎな実話がある。
コロンブス以前に新大陸を発見した男がいた、というのだ。
無名航海士ということになっているが、アロンソ・サンチェスという名前である。ラ・ラビダの修道院に近いウエルパの船乗りで、一四八五年以前にすでに、エスパニョーラ島をはじめとするインディアスの島々を発見していたという。(p.153)
一五三五年に出版された『インディアス一般ならびに自然史』で、この話を最初に取り上げたゴンサロ・フェルナンデス・オビエドによれば、アロンソ・サンチェスの一行は、別に西回り航海を目指したわけではなく、時化に遭ってはるか西方に流され、偶然に前人未到の島々に到着したものらしい。
往復四、五ヵ月におよぶ漂流航海で、帰路にはほとんど全員が死亡し、マデイラ島に漂着したときは、アロンソ・サンチェスだけが生き残っていた。このマデイラ島コロンブスの妻フェリーパの父が、かつて統治を委任されていた島である。彼女と結婚したコロンブスもこの島で暮らしたことがある。アロンソ・サンチェスを救出し、介抱し、死の直前、貴重な情報を得た唯一の人間がコロンブスであった、とオビエドはいう。
この話は、一五三五年当時、エスパニョーラ島に入植していたスペイン人たちのあいだでは、公然の秘密だったといわれる。(略)
一五五二年、『インディアス一般史』の第十三章でこの話を取り上げたフランシスコ・ロペス・デ・ゴマラは、アロンソ・サンチェスから得た情報こそ、コロンブスを、執拗なまでに西回り航海に没頭させた、最大の理由であるときめつけている。(p.154)

北方の人(ノルマン)が移住した地域はノルマンディーとして、こんにちに至っている。
彼らはノルマンディーを手に入れ、故郷からリンゴの苗木を取り寄せると、リンゴ園を開いた。カルヴァドスというリンゴ酒のブランデーは、こうしてフランスの名産品になったものだ。(p.149-50)

いわゆるコーヒー・ハウスなるものが最初に開業されたのは一六三七年、イギリスはオックスフォードにおいてのことだが、女たちはこの黒い飲みものを、はげしく憎んだ。そうして、珍奇なパンフレットをバラまいて、反対運動を展開した。「コーヒーに反対する女性の請願。かの乾燥させ、衰弱させる飲みものの過度の摂取によって、女性たちのセックスに生ずる巨大な不都合を公共の思慮に訴える」という、六ページにおよぶパンフレットである。
つまるところ、コーヒーは男を不能にするというものだが(略)(p.179-80)

コロンブスの一行は、第一次航海(一四九二年)でグアナハニ島を発見、サン・サルバドール島命名した。この島でタバコの葉を知り、エスパニョーラ島で、原住民が喫煙しているのを目撃している。
五世紀頃のマヤ民族の遺跡には、神官が煙をふかしているレリーフが残っている。タバコの葉を巻いて作ったいわゆる葉巻タバコcigarroは、マヤ文化で「喫煙」を意味する「シカッル」sik’arという言葉が転じたもの。これは金持ちが吸うもので、値段も高かった。その吸いがらを拾ってセビリアの乞食たちが紙で巻いたのが紙巻タバコcigarrilloのはじまりで、パペリーリョpapelilloと呼ばれていた。
シガレットという言葉が使われるようになったのは、十九世紀初めのナポレオンのスペイン侵攻中のことだ。フランス兵がはじめに紙巻に親しみ、まずフランス語のcigarilloになり、英語のシガレットcigaretteに転じた。
このコロンブスの航海土産の栽培に最初に成功したのは、セビリアの医者ニコラス・モランデスで、一五五二年のことである。あっという間にヨーロッパじゅうにひろまり、一六〇五年には日本にも渡来した。喫煙の風習が広まると、たいていの国がいちどは禁煙令を出している。理由としては(略)ほとんどが火災予防からであった。(p.195-6)

捕まえられた黒人たちは、「奴隷貯蔵庫」なるものに押しこめられた。
(略)
この穴倉というのが五メートルに七メートルの三十五平方メートル、坪数にして約十坪の二十畳。ここに三百人を詰めこんだというから、想像に絶する。(p. 210)

じつをいうと、(引用者注:支倉常長らの)一行はほとんど政宗から旅費を支給されていなかった。一体、どういうつもりなのか?このため、帰途は一文無しで、マドリードでのたれ死んだ団員もいるほどだ。ほとんど国辱ものの外交使節である。(p. 246)

海の世界史 (講談社現代新書)

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