心優しき善意の正義の人と歪曲されてきた真実に目覚めた正義の人

各種のウェブ日記の類を覗いているとしばしば見受けられるのが、世にはびこる不平等・不公正や見過ごされている各種の危険について憂える心優しき人々が、それを指摘したり時に反省したりしているところに、既成概念によって歪められてきたことの真実の姿に目覚めた人々が、その事実認識の誤りを訂正しようと指摘をしまくり、反発を買っている姿である。とりあえず各派の名称が長いので、左側に書いた方を【左】、右側に書いた方を【右】と以下呼称する(笑)。

注意!:左翼右翼というのとは本当に違うからね。念の為。

【左】側の人がおされがちなのは、基本的に心優しきかれらは、可哀想な話や安全側の話を疑うなんて悪意に染まったようなことをしないからであろうか。しかし、対する【右】側の人の多くは、おそらく現代日本の教育から考えて、当初は【左】側の人と同じ証拠を見せられ、同じ思想を叩き込まれて来た中から、大なり小なり自らの意思でその前提を疑うという段階を経ているだろうと考えられる。となれば、否定の手段を持たない【左】側の人よりも、そもそもその立場を否定する事から始めざるを得なかった【右】側の人の方が「議論」として優位に立つのは自明だろう。

以上の物言いから自明だろうが、私自身は【右】側よりの考え方をしている。その私からみれば【左】側の人の意見は、例えるなら、日本史についての議論をしているのに、その前提としているのが東日流外三郡誌だったり竹内文書だったりするような感じなのだ。そしてまた往々にしてそうと指摘したときに返ってくる言葉が、日本書紀古事記は官製文書だから信用できない、というようなレベルで留まってしまい、そういった印象批判や感情論から抜け出した、具体的なevidence-basedの議論に到達できていないのだ。

ちょっと例としては極端だったかもしれない。でも別の喩えで言えば、「信長公記」を元に信長の実像に迫りたいと思って議論を始めたのに、相手が「津本陽」や「司馬遼太郎」から一歩も出てこようとしないで自説に固執するってケースはママある。

日本書紀」や「古事記」の限界を認識することは重要だけど、だからといって偽書であると言われているものを、文献学的検討も行わずに全面的に信用して論をすすめていては、批判を受けても仕方がないと思う。自らが依拠するものが信用に足るものであると思うなら、「evidence-based」で論をすすめればよいだけでしょう。

ちなみに根本的な擦れ違いとして、『自分が行っている「議論」ではなく「個人の日記」だ』という意見もみかける。ぬるすぎる。web上に意見を掲げることは、名目や本人の意図はどうあれ、全世界に向けて自説を主張することに他ならない。webは、個人が既存の大メディアと同じ土俵に上がることを原理的には可能とする得難い場だ。それを「日記だから」と「逃げ」を打って他者の批評を拒むことは、発言の責任を放棄する行動だ。恩恵だけを享受して責任を負わないというその態度は、言論上の轢き逃げ犯みたいなもんだ。その点は批判を受けてもしょうがなかろう。

斯く、議論を受ける【左】の側の人に、往々にして「evidence-based」に話を進める姿勢が欠けていることは否めない。一方で議論をしかける【右】の側にも、「evidence-based」からそれた部分を切り分けて整理しながら議論を進めていく姿勢もしくは技量が足りぬ様に思う。

往々にして切り分けたら感情的な食い違いの部分以外残らなかったりもするんだけどね。

さらに問題だと思う事がある。【右】側の人々は、一部に言論上の破壊活動を楽しんでいるように見受けられる方もないではないが、多くの方は自らの「コペルニクス的転回」を踏まえて、新たに知った事実を周囲に対して啓蒙することを志しているように見受けられる。しかし、その行為が往々にして反発ばかり産んでいるのに、戦略の修正が感じられないのだ。しばしば無邪気なノンポリの方を、むしろ反対の側に追いやる「利敵」行為を繰り返しているように思える。酷い場合は自前の掲示板で論破したと誇っていたりもする(破壊活動派であるのかもしれないが)。それじゃあ本当に敵を増やしちゃうよん。

ついでに言えば、そう言った議論が紛糾しやすいのは、批判を受ける側が非難ととらえてしまっている上に、批判する側も非難してしまっていることが多々ある。そりゃ紛糾もするでしょう。

なんかもうちょっとお互い落とし処を探れるようなやり方がとれないものかね。

と、自らの失敗経験も振り返りつつ他人事のようにまとめてみたのだった(^^;。