まだ『ついに薬を使って記憶を消し去ることが可能に』なったわけではない
『ついに薬を使って記憶を消し去ることが可能に - GIGAZINE』が人気のエントリとなっている。
ここで紹介されている記事は、非常に興味深い結果ではあるが、現時点でこのタイトルのようなことがいえているわけではない。もとはイギリスの新聞Telegraphの記事『Scientists find drug to banish bad memories』であるから、確かに元記事でも近い表現がなされてはいる。しかし、新聞がセンセーショナルな見出しをつけるのは仕方ないとして、そのような見出しに簡単に踊らされるのもどうかと思う。
さて、なにが大げさで、一方どこまでは確実なこととして言えているのか。既に元の論文に当たった方がおられるので、その方id:Kachila氏の記述を引用させていただく。
『そのおとこ、和田につき 忘れ薬 12:45』
トラウマを有する19人が対象。二重盲検法で「プロプラノロール」(9人)かプラセボ(10人)を割り付け、トラウマの原因事例を思い出してもらった後に薬物を投与して一週間後のストレス反応を調べた、と。「プロプラノロール」を投与した群でストレス反応が弱くなったとは書いてあるが、記憶が消失したという結論は出てないぞ。Discussionでの推論の一部として「記憶の再整理を阻害した可能性は考えられるものの、もしそうだとしたらプロプラノロール割付群のストレス反応はもっと小さいはずだ」とは記載あり。
すなわち、
- トラウマによるストレス反応が弱くなった
のであって、
- 記憶が消失したという結論は出てない
のだ。
振り返ってGIGAZINEの記事をよく読めば、概ねなぞっているものの、微妙に逸脱しているのがわかる。下線は引用者により元のストーリーからの逸脱部分に付加。
この記事によると、ボストンのハーバード大学やカナダのモントリオールにあるマギル大学の研究では、トラウマ(心的外傷)による心拍数の上昇などで苦しんでいる被験者が、原因となった出来事を思い出している時に薬を投与した結果、一週間で症状の軽減が見られたそうです。
これは記憶障害を引き起こすことが知られている、高血圧な心臓病患者に対して用いられる薬「プロプラノロール」を使用したことによるもので、脳から読み出された記憶が、脳にまた格納されるプロセスを妨げることによって、記憶を消し去ることに成功したとのこと。
とあるうち、後半の途中までは確かに確認されたことだが、最後のまとめ(下線部)のところは、元の話ではあくまで考察部分でその可能性を述べているだけにすぎず、それをこのように断言するのは誇張に堕してしまっているといえよう。
元のテレグラフの記事についてはGIGAZINEよりもid:LM-7氏のページの紹介が詳しいようだ。そこではしっかりと記憶が消えていない旨が記されている。強調引用者。
『A Successful Failure - 忘れ去りたい記憶だけをピンポイントに消す薬』
プロプラノロールは記憶の感情的な部分を弱める作用があり、彼らは未だトラウマとなった出来事の詳細を覚えているが、感情をうまくコントロール出来るようになっていた。
ではなぜid:LM-7氏のエントリがこのようなタイトルなのかといえば、関連した動物実験の結果を下敷きにしているのだ。
一方、ニューヨーク大学のJoseph LeDoux教授が率いるチームは、ネズミを用いた実験でその他の記憶を保ったままで特定の記憶だけ消去することに成功したと報告した。実験においてネズミは2種類の特定の音色と弱い電気ショックと関連づけて記憶するよう訓練された。訓練によってネズミはどちらかの音色を聞くと、電気ショックに対して身構えるようになる。記憶喪失薬の投与後、ネズミは1つめの音色を聞いても電気ショックと関連づけられなくなったが、2つめの音色を聞くと以前と同様に電気ショックに対して身構えた。これは特定の記憶だけ消去されていることを示している。
このように、動物実験からはその可能性があるし、今後それ専用の薬もしくは服用の方法が開発されて実際にそうなるかもしれない。しかし、現時点では、ヒトでは『まだ『ついに薬を使って記憶を(ピンポイントで)消し去ることが可能に』なったわけではない』のだ。*1
以上、とりあえずぶくまのまとめ*2。id:Kachila、id:LM-7両氏に感謝。
もともと記憶障害を起こす薬として知られていたようだから、確かに記憶は消すのだろうけど、記事を読んだ印象からだと、実体験の記憶を身体的なものから切り離し、一種疑似体験化する薬って言い方のほうがふさわしい感じがするなあ。このような研究から、記憶というものがどういう風に成り立っているのか、ってこともわかってくるのかな。