煙草と自己決定権

紫煙を楽しむ|日本パイプクラブ連盟 - QOLって何? (その2)』において、『川原遊酔(かわはらゆうすい)』という号で以下のような文章が投稿されている。(抜粋)

前回、QOL(Quality of Life)は、「生活の質」というよりは、「個人生活全般にわたる満足感」を意味するとした(中略)


中高年以上の現代人のQOLにとっては、もはや無病息災は困難なことから、一病息災あるいは多病息災という意味合いから、病気と共存しながらも、安全、安心、公正、自由、快適などの生活評価軸が保障され、社会的にも経済的にも個人の満足感が充足されることが重要であり、その手段として、衣食住をはじめとして、芸術、スポーツ、嗜好品などの趣味、嗜好が自由に選択できなければなりません。いわば、自分のことは自分で決めて選択する「自己決定権」が最優先課題なのです。


筆者としては、この「自己決定権」の象徴的な例が、嗜好品摂取だと考えています。一定の生活評価軸が保障された中で、お酒、たばこ、コーヒー、お茶などの嗜好品をどのように生活に組み込むかは、個人の自由です。ある時は、美味しいつまみと日本酒、ある時は、公園を散歩しながらのパイプたばこ、またある時は、友人と語らいながらのコーヒーなどによって、至福の時をすごせれば、ストレス解消にもなりますし、高いレベルのQOL を維持できるのではないでしょうか。

書かれている範囲において*1、個人的には異論はない。問題は後半の

最近の行き過ぎた喫煙規制は、愛煙家にとって、生活の分野におけるQOL低下につながっており、憂慮に堪えません。

にあるような、過去の喫煙様式を擁護する文脈で書かれていることである。


煙草を吸うと言う行為を「自分で決めて」「自由に」吸いたい。おけ。しかし喫煙というものが何を伴うものであるかと言うものにまるで無自覚であるところに失望する。


「美味しいつまみと日本酒」はどこで楽しむ?
「友人と語らいながらのコーヒー」は?
駅のホームの一角で、乗り換えの慌しい中に寸暇を惜しんで楽しむか?
他者の干渉を受けずにすむ場で、存分に楽しむからこそ「至福の時」なのではないのか?


シガーバーでシガーを楽しむ。*2
ロッキングチェアでパイプを楽しむ。
自宅の豪勢な御庭を散策しながら煙を燻らす
好きにすればいい。どうぞ「自己決定」してくれ。
しかし「公園を散歩しながらのパイプたばこ」は、私が同じ公園を楽しんでいるときは勘弁してくれ。


貴方が「公園を散歩しながらのパイプたばこ」を楽しみたいのと同様、私も「煙臭くない公園での散歩」を楽しみたいのだ。そして貴方の「自己決定権」は暴力的に私の「自己決定権」を侵害するのだ。


一体にどうしてこう暴「喫煙擁護」者は喫煙と言うものの性格に無自覚なんだろうか。喫煙の「自己決定権」とやらは、他者の「生存権」よりも強いものなのか?私に加えられる頭痛よりも、優先されねばならぬものなのか?卑小には今まさに楽しもうとしている料理の臭いも何もかき消されることよりも優先されねばならぬものなのか?


ああ、確かに喫煙の「自己決定権」の範囲は狭まっているのだろう。しかしまず過去の、数の力を借りた強引かつ喫煙者本位の「自己決定権」行使のツケを払ってくれ*3。そして、ソレがいかに尊重されるべき「文化」であるのかを示してくれ。



一言で言えば。


ふざけるな。

*1:補足:QOLというものを引用の冒頭にあるように限定的に捉えた範囲において、としておく。

*2:もしかしたら健康増進法以来、シガーバーと言うものの存続自体が問題となっているのかもしれない。欧州におけるパブ禁煙の動きのごとく。ただ、年配の愛煙家に関しては、個人的には自業自得の思いを禁じえない。愛煙家にこそ、自らの愛するものを守るため、自らの権利を守るために、「暴煙者」対策の先頭に立ってきて欲しかった。

*3:ツケを払い終える前に貴方の寿命が先に尽きるかもしれんが、それは知らん。そのようなケースに該当する人の多くは、おそらく過去に存分に楽しんで来た方であろうから。