池田清彦『新しい生物学の教科書』(新潮文庫)

池田清彦という人の「新しい生物学の教科書」(新潮文庫)なる本を買った。読んでみようかと思った理由は、冒頭の「文庫版によせて」のタイトルが「科学リテラシーを身に付けると、もっと生活が面白くなる」とあったから。そしてもう一つ。ぱらぱらとめくっていたら「構造主義生物学」なる単語が見えたから。
 
構造主義生物学に関しては、その昔柴谷篤弘氏のそのような文言をタイトルにつけた書籍を買ったことがある。当時輪講のサークルに入っていた中で、還元主義で生物は理解できるのかといったような小難しい議論があった。そういった中、古書店で見つけたこの小難しげな本を、背伸びをして買ってみたのだ。が、読もうとしてもどこが「生物学」の本なのやらわかりゃしない。なんだか現実に即さない空理空論のようなものばかりだったような記憶がある。時をおいて何度かチャレンジしたものの、最終的には実際の生物学研究には不要な思想としてその本も手放した。
  
そういった経緯もあったので、久々に懐かしく読んでみた。
  
が、結構むかつく本であった(^^;。
  
以下、分子生物学どっぷりでやってきた根っからの還元論者の偏見であるので構造主義生物学者からのご指摘は歓迎する。
  
どうやら構造主義生物学者というのは、DNAや遺伝子から生物が理解できるという考え方を嫌っているらしい。いくつかその辺りの思想が伺えそうなところを引用してみる。

実際の形質は、遺伝情報と環境情報がともにシステムに作用する事によって発現する。発現可能な形質の範囲を決めているのはシステムであり、情報は可能性を限定し、形質を固定する作用を持つ。(p.47 第2章のまとめ)

遺伝子を巻き込んだ形態形成システムとでもいうべきルールであると解すほかはない。あるいは遺伝子が情報だというのであれば、情報の解釈系とでも呼ぶほかはない。(p. 149 第9章 相同とは何か)

重要なのはシステムの変更は自然選択とは無関係に起こることだ。自然選択は定立したシステムの存亡に関与することができるだけなのである。(p. 256 進化に関連して)

遺伝子が次々と首尾よく発現して発生が進むためには、それを受け入れることができる細胞のシステムがすでにして受精卵にそなわっていることが必要である。受精卵の中の高分子の配列(布置)は、細胞分裂を通してめんめんと遺伝してきたのであって遺伝子が共時的に決めているわけではないのだ。遺伝子の発現調節と発生パターンの間の関係は、このシステムをブラックボックスに入れておいての対応にすぎないと言えば言えるのである。(p. 319 第21章 形態形成)

最後の文章の最後の一文は正直よくわかんない。でも、この人のいっているのは、基本的に遺伝子という単語をcoding regionだけに勝手に限定しておいて、その調節システムをブラックボックスのままシステムだとか場とか呼んで祭り上げているだけとしか思えない。実際には遺伝子としてはnon-codingに含まれるであろう調節因子があったりするわけだし、そういった遺伝子によって固定されていなければ、細胞の「解釈系」だって伝わるものでもあるまいに。
  
例えばこういう記述もある。

二足歩行は大きな構造上の変化として適応とは無関係にまず起こったのであり、(p. 245)

だから?そういった「変異」を固定するのが「自然選択」なんではないのか?
  
ともあれ、おそらく以前読んだときと同様な感想しか抱けなかった。勝手に自分で敵を設定して敵の論点を狭く解釈し、それにむやみやたらに噛み付いているだけとしか思えない。例えばグールドの言うような(正式な用語は忘れたが)断続的に大進化が起こるってのは還元主義とは別段矛盾しないように思う。彼らは、その範囲に含まれる議論で勝手に勘違いして(変なイデオロギーに染まって)暴れているだけにしか思えない。
  
正直教科書とはおこがましすぎる。


紹介する価値を感じないのでデータはなし。