日本史系

しんどいので簡単なメモのみ。いずれもこれまでの見方を覆す感じで面白かった。結果的に「征夷大将軍」から3冊ほど、似たテーマで読んだことになった。

武家の棟梁の条件―中世武士を見なおす (中公新書)

武家の棟梁の条件―中世武士を見なおす (中公新書)

  • 源氏が昔から関東(坂東)の武家の棟梁であったのではないこと
  • 坂東における棟梁であった武家平氏平直方が、平忠常の乱の鎮定に失敗し、その低下した威信を回復させるために源頼義を婿とした。これによって、源氏が坂東武士の棟梁たる地位に着いたこと
  • 俘囚の長とみなされる清原氏が海道平氏であったと思しきこと
  • 陸奥における鎮守府将軍というのが、また一方の部門の棟梁として大きな権威を持っていたこと
  • その鎮守府将軍への対抗上、頼朝にとって征夷大将軍という地位が必要であったこと

など、日本史はあまりきちっと勉強してこなかっただけに、興味深い。次に述べる今谷明の本や、先に触れた「征夷大将軍」などを通じて、源氏でなければ征夷大将軍になれないというのはかなり後付であろうことや、あくまでも東国、そして夷を払うという立場であることが、名目どおり重要視されていたことなども、面白かった。


ただ武士は現代でいえばいわば暴力団だというのには同意しないでもないが、この著者のやたら現代にまで広げてくる、左がかった「武」の貶めは、非常に鼻につく。1951年生まれだと、そういう姿勢に染まっていて不思議はないのかもしれないが。


武家と天皇―王権をめぐる相剋 (岩波新書)

武家と天皇―王権をめぐる相剋 (岩波新書)

これも類似のテーマか。一般に思われているのとは異なり、天皇の権威の衰退は室町盛時を底とし、戦国期には上昇に転じ、秀吉により「王政復古」状態に至った後、徳川政権が封じ込めようと試みるも、幕府内部ですら天皇を名目上上位とするところを脱しえなかったというところを、後水尾天皇の所までたどって述べた本。


とりあえず以下若干の備忘。

  • 家康の源氏改姓は、三河が鎌倉室町と足利系の国であったことと、国内に源氏一族の国人土豪がいた関係で、源氏であることが権威であったからと考えるほうが自然。
  • 信長の平姓についての理由は不明だが、将軍任官は清和源氏でなければならぬということがなかったということの証拠として、信長に対して、天皇が将軍任官を勅許したという資料があるとのこと。具体的には『岩沢(上下に原心:とし)彦氏が一九六八年、『天正十年夏記』(内閣文庫蔵)とよぶ日記の中に、天皇と信長のあいだで将軍推任に関する交渉が行われた経過が書かれていることを発見された。この日記は伝奏勧修寺晴豊が記したもので、岩沢氏の解釈では、武田攻めから凱旋してきた信長に対し、将軍・太政大臣・関白のうち随意の職をあたえようと天皇側が提案したという。一九九一年には、立花京子氏が、新解釈を提唱された。信長が三職のいずれかに任命するよう要求し、信長の意中は将軍であったというのである。現段階では、立花氏の解釈が学会で有力である…』『朝廷にとっては、源氏であろうが平氏であろうが、ある条件さえ満たせば将軍任官が可能だったのである。』『「関東」を何らかのかたちで制圧していること、これが条件であった』
  • 秀吉は小牧長久手の戦いで敗れたために、「東」を征することが出来ず、征「夷」大将軍になれなかった。
  • 「一六〇〇年一二月一九日、九条兼孝が関白に任ぜられた」ことで公家関白が復活したことは、秀吉の武家関白の否定であり、秀頼の関白就任の道を防ぐ=秀頼が武家の棟梁の地位に登ることを封じる重大な政治的事件であった
  • 家康を神に祭る際の論争。吉田唯一神道で祭られた秀吉は明神。神龍院梵舜は天海主張の権現号と唯一神道の明神号の違いについて、『(1)権現・明神、どちらも上下区別はない、(2)権現はイザナギイザナミ両神のみの号で、他に先例がない、(3)明神号は魚鳥五辛などの忌みなく、参拝が容易で、太政大臣を祭るにふさわしい』と。天海が山王一実の習合の神道を主張し、その政治力、さらには王政復古を否定する家康が「習合」を重視したこと、豊国明神の秀吉が滅びたことを秀忠が重視したことなどにより権現となった。