参考:瀬戸内シージャック事件(リンクはwikipedia)

誰か昭和を想わざる 昭和ラプソディより。強調は引用者による。

昭和45年5/12午後2時、広島市尾長町からライフルを持った2人の男がいる、と通報が入り、5/10午前2時に福岡の柳小路で車を盗み、5/11午前0時30分に山口県下で警官を刺した3人組のうち、その場で逮捕されずに猟銃で威嚇しながら逃走した2人であるとわかった。警察で警戒をしたところ、午後2時30分、広島の安芸郡府中町キリンビール工場前の県道で該当の2人を発見した。広島東署大州派出所の巡査ら2人が近づき、ライフル2人組のうちの1人、大工(19)を逮捕したものの、もう1人の男、川藤展久(20)が巡査(23)のピストルを奪い、通りかかった男性店員(20)の運転する軽トラックに乗り込んだ。そのまま川藤は男性店員を脅しながら「キャラバンに行け」と広島の繁華街にあるバーの名前を挙げ、広島市立町の同じビルにある住吉鉄砲店に押し入り、店長の長男(22)にピストルを突きつけて、ライフルなど3挺、実弾80発、散弾250発を奪い取った。さらに川藤は店の前を通った、かもめタクシーに、運転手(23)を脅して乗り込み、広島市宇品町1丁目の広島港桟橋で下車、午後4時30分に待合室に乱入した。川藤は銃の袋でライフルをギターかのように見せかけていたが、午後4時55分、突如、1階待合室で「撃つぞ」と発砲、老人男性(71)にけがを負わせ、第5桟橋へ逃げると、そこには、今治行き定期汽船ぷりんす丸(176.8トン)が停泊しており、ぷりんす丸事務長(57)にピストルを突きつけ、川藤は乗船、事務長は隙を見て逃れた。
 
ぷりんす丸には乗客33人、乗務員11人が乗っており、川藤にシージャックされたまま午後5時20分に出航、川藤は岸壁に発砲し、広島南署の警部補(46)にけがを負わせた。午後9時43分には愛媛の松山市高浜町松山観光港第2桟橋に入港、川藤は岸壁に向けて発砲を繰り返し、川藤は船長を交渉役として、「代わりの船を用意するか、給油するか」と要求、要求に応じれば人質を解放する、としたため、愛媛県警ではぷりんす丸に給油を行い、5/13午前0時50分、8時間ぶりに乗客ら37人が解放された。乗務員7人はそのまま人質となり、ぷりんす丸は松山を出航、そのまま船は午前9時前に広島港桟橋に逆戻りした。川藤はまたも岸壁に向けて発砲を繰り返すので、警察では川藤の父と姉を呼び寄せて、200メートル離れた巡視船からハンドマイクで呼びかけるが、川藤は巡視船に向けて発砲した。
 
午前9時52分、大阪府警の巡査部長がライフルで80メートル離れた、ぷりんす丸から身を乗り出して左手にライフルを持っていた川藤を狙撃したところ、ただ1発の発砲で川藤に命中、川藤は左胸に弾が貫通し、午前11時25分に死去した。テレビカメラが始終を撮影しており、射殺のシーンはテレビで何度も流れた。この射撃で川藤が倒れる際には広島港の2000人の群衆は歓声を上げたが、ぷりんす丸乗組員には川藤に同情する声もあった。警察側の犯人負傷を狙ったたった1回の発砲でシージャック犯人が射殺されるという予期せざる事態だったが、川藤は鉄砲店からライフルを奪ってより116発も発砲して、民間人1人と警官1人にけがを負わせ、ほか民間人1人と警官2人にガラス破片でけがを負わせていた。116発の内訳はライフル50発、散弾64発、ピストル2発だった。
 
川藤は倉敷の飲食店経営者の三男で、男5人女1人の兄弟だった。中1で家出、昭和42年に尾道で工員をしていた際に空き巣で捕まっている。昭和 45年4/30には福岡市西堅粕4丁目の花見荘で部屋を借りていた。その際に年増女性と小さい子供も一緒にいたが、すぐにどこかへ去ったという。
 
この事件、後日談がある。5/15、札幌弁護士会の入江五郎弁護士(44)、下坂浩介弁護士(33)が狙撃を指揮した広島県警本部長と、実際に狙撃手となった大阪府警巡査部長を殺人などで広島地検に告発*1したのである。さらに5/16、社会党広島県本部は「見せしめのための射殺の意図が濃厚だ」などと広島県警本部長に抗議した。世論の大多数は射殺やむなし、という反応だったものの、知識人と称される人々や一部マスコミ、左翼関係者らはライフル魔を被害者扱いし、警察を殺人鬼呼ばわりするという本末転倒の論理を振りかざした。これが後に、連合赤軍浅間山荘篭城事件に際して、警察側が発砲出来ず、犯人からの銃撃に警官や民間人多数が死傷するという出来事の伏線となったと言われている。差別問題や思想問題を振りかざせば、寸又峡の殺人篭城犯も「立派な文学者」(伊藤成彦中央大助教授)となり、オフィス街で多数の民間人を殺傷した爆弾テロも「爆弾闘争」にすりかわる時代であった。瀬戸内シージャックのライフル魔は犯行の背景に思想的な動機はないものの、同事件の1ヶ月前には赤軍派によるよど号ハイジャック事件が起きており、既成秩序への反抗ならば犯罪でも是、悪いのはすべて体制、警官、自民党自衛官とする風潮が当時は一部の左翼人士の間には根強く存在していたのだった。川藤についても、実際にはぷりんす丸に乗り込む直前に71歳の民間人男性を発砲で負傷させているのだが、「川藤は民間人を1人も傷つけていないのに警察は川藤を射殺した」という「伝説」が流布された。この話は単に無知の産物だったのか、故意に広められたものだったのかは判然としないが、こうした警察を悪の象徴と描くための「善意の犯人像伝説」が要求される時代だったのである。

かくて今に至る。


wikipediaの記述から事件の影響について一部引用。

これ以降起こった日本の事件では、犯人が銃器等で武装している場合でも、なかなか射撃命令が下されなくなり、1972年のあさま山荘事件では、犯人からの一方的な攻撃で、警察官が殉職するといった事態を招いた。

この事件を教訓とした結果、1979年に発生した三菱銀行人質事件では、一人の狙撃手ではなく、大勢で一斉に狙撃をすることにより、誰が致命傷を負わせ、射殺したのか分からなくするようにした。世界的には珍しい対応である。

*1:しかもその理由が別サイトで見かけたところによると「手足を撃って逮捕することができたのに、いきなり射殺したのは人道上も許せない」だとか。手足を撃って逮捕って、どんなゴルゴだよ。