『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人 Cafe OPAL レビュー』

やっぱりどうにも納得いかないので書く。

基本的に、原作付きであっても、映画を映画単独で評価して論じるということ自体は否定しない。ただ物語世界に踏み込むならそれなりの下調べと仁義くらいは切るべきだろう。

俎上にあげようとしているのは、7/31にコメントしたサイト。評者が

私の場合、前 2 作(クリス・コロンバス監督)がさっぱり面白くなく、

ってのはしょうがないと思う。私自身挿絵集だな、と思ってたし。しかしこうも誤解を垂れ流すかね。
初っぱなから、

素直が取り柄のハリー

って誰のこと?ハリーってはじめから結構かなり歪んでるぞ。一貫して先生の言うことを聞かない規則破りの常習犯でしょうが。今作中でもトラブルメーカー(の親父さん似)だと言われてたでしょうが。

この『アズカバンの囚人』のハリーは、優等生ではありますが、父母の喪失というトラウマを抱えた少年として描かれます。

って優等生はハーマイオニー。ハリーは違うでしょ。しかも父母がいないことははじめから一貫している話。殊更今言及するような事じゃない。

クライマックス、ハリーは「父親(の霊?)が助けてくれた!」と喜色を浮かべるが、実は父親では無かったことが明らかになる。それを卒然と了解したハリー、表情はクール、しかし胸中は悲しみに満ちていたであろう。大団円の爽快さの裏に悲しさ・寂しさがこめられた脚本が見事です。主人公のキャラが 3 作目にしてやっと立った、そんな感じ、心に闇を持つ主人公が駆使してこそ、魔法は、その魅力を映画に横溢させるのであった。

前回言ったとおり、「悲しみに満ちた」「心の闇」からは「エクスペクト・パトローナム」は効力を発揮しない。映画としての描き方に問題があったし、映画からはたしかに誤解が生じるだろうとは思った。が、こうまで見事に勘違いしたまま、それを確認もせずに断定的な口調で、評として垂れ流す神経はわからん。

余談ですが、クライマックス、湖のほとりに鹿が現れるのは『もののけ姫』っぽいし、日本のマンガ、アニメの多大な影響がうかがえる…かも?

ここも同様。映画からは、なぜ「鹿」なのかってところの説明がまるっきり欠けているからしょうがないが、唐突に「鹿」が出ることに違和感とか必然性への疑問とか感じなかったのかな?

あと

映画の隅々にひと工夫=“トンチ”が存在しています。ハリーが、なかなか使いこなせなかった、守護霊を召還する魔法を、なぜ使えるようになったか? その理由は、ずるいけれども見事なトンチであります。

って言及があったが「トンチ」?何のことを指しているんだろう。

ともあれ、批判するなら極力ソースをあたり、対象をある程度理解してから。こうやって批判を書いておいて言うのも何だけど。自戒を込めて。