諡号備忘

常々、漢代の諡号が「武帝」「光武帝」「献帝」と「帝」で終わるのに、唐宋では「太宗」「高宗」「玄宗」といった「宗」で終わり、また明清で「洪武帝」「永楽帝」「康熙帝」「雍正帝」「乾隆帝」と「帝」となるのを不思議に思っていた。このうち最後のものについては、一代一元号になったから、「元号」+「帝」とは推量できたし、創業者は「太祖」「高祖」などと「祖」で呼ばれるのもこれはなんとなく納得がいっていた。


そうした中、「中国史人物事典〜歴代皇帝−隋唐」なるページにたまたま出くわし、唐代の君主の呼称を見て仰天した。最初の列が名前。最後の列が在位期間。途中2列に、およそ二種類見られた呼称を示す。

李淵高祖神堯大聖大光孝皇帝在位618〜626
李世民太宗文武大聖大広孝皇帝在位626〜649
李治高宗天皇大聖大弘孝皇帝在位649〜683
李顕(哲)中宗大和大聖大昭孝皇帝在位683〜684、705〜710
李旦(←旭輪)睿宗玄真大聖大興孝皇帝在位684〜690、710〜712
武照(→曌)則天順聖皇后*1/聖神皇帝(周)在位690〜705*2
李隆基玄宗至道大聖大明孝皇帝在位712〜756
李亨粛宗文明武徳大聖大宣孝皇帝在位756〜762
李豫(←俶)代宗睿文孝武皇帝在位762〜779
李适徳宗神武聖文皇帝在位779〜805
李誦順宗至徳弘道大聖大安孝皇帝在位805
李純(←淳)憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝在位805〜820
李恒(←宥)穆宗睿聖文恵孝皇帝在位820〜824
李湛敬宗睿武昭愍孝皇帝在位824〜826
李昂(←涵)文宗元聖昭献孝皇帝在位826〜840
李炎武宗至道昭粛孝皇帝在位840〜846
李忱(←怡)宣宗元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝在位846〜859
李漼(←温)懿宗昭聖恭恵孝皇帝在位860〜873
李儇(←儼)僖宗恵聖恭定孝皇帝在位873〜888
李曄(←傑/→敏)昭宗聖穆景文孝皇帝在位888〜904
李祝(←祚)哀帝/昭宣光烈孝皇帝/昭宣帝(後唐明宗追諡)在位904〜907
なんだこの3列目に来る長ったらしい名前は?酷いのになると20字もある。


いろいろ検索していった中、どうやら諡号には廟号帝号というものがあるらしいことがわかってきた。

唐朝六代目にあたる、開元の治・楊貴妃安史の乱で有名な玄宗で言えば、

二列目:廟号玄宗
三列目:帝号:至道大聖大明孝皇帝

ということらしい。


例によってwikipediaが異常に詳しい。

号とは:

主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名号

前漢の皇帝たちは(略)、さらに二通りの帝王諡号を制定した。文帝・武帝・明帝・元帝などの帝号と、高祖・太宗・世宗・宣宗などの廟号がある訳である。一般に言うと、隋以前は帝号を以って帝王の尊称としたが、唐宋以後は多く廟号を用いるようになった(帝号も無くなったわけではないが、唐の太宗の「文武大聖大広孝皇帝」のように長くなる傾向があり、呼びにくいので通常にはあまり用いられなくなった)。

末帝や廃帝には廟号が上られなかった。廟号を得るとは太廟(皇室の祭祀所)に位牌が祀られることを意味し、崇めるに足りなかった廃帝や、皇朝の末代にそのような待遇はされなかった

なるほど。唐代の最後の皇帝李祝も哀帝とのみあり、廟号に相当しそうなものが見当たらない*3


一方、廟号とは:

先祖を祭るための廟に載せられる称号。諡号との違いは諡号が子孫が先代に対してある種の評価を交えているのに対して、廟号は歴代の先祖の列に並ぶための号

高祖など特徴的な廟号を持つ王朝の創始者と二代目だけを廟号で呼ぶのを除き、それ以降は諡号で呼ぶのが通例だが、唐以降の王朝は諡号が複雑長大になる傾向があり、より単純な廟号ですべての皇帝を呼ぶ習いである。

なるほど。確かに「複雑長大」だ。

明代以降は、一世一元の制が出来、一部の例外を除いてひとりの皇帝がひとつの元号のみを持つようになったため、日本では廟号や諡号の代わりに帝の字に元号を冠して永楽帝のように呼ぶ。

むー。「永楽帝」とかの呼称って日本独自なのか?


長くなった経緯については、こういうページがあった:「諡号について

謚号の文字数は、周〜春秋戦国期においては、周文王、周武王、斉桓公、晉文公、秦穆公などの様に基本的には1文字でした。ただ、中には周の威烈王、趙の孝成王、恵文王、貞恵文子、楚の孝烈王などの様に2文字、3文字の場合もあります。
西漢の恵帝以降になると、孝文帝、孝景帝、孝武帝などのように「孝」の字が加えられる事となります。(略して「漢の武帝」などといいますが、正式には「孝武帝となります。*4)これは、漢王朝が治国立家の為に「以孝為本(孝を以て本と為す)」を提唱したためでした。
これ以降、隋代に至るまでの謚号は、2文字が基本となっていきます。
しかし、唐代に入るとこれらの原則は脆くも破られる事となります。唐朝の武則天の時に、「上尊号」という制度が現れました。この制度は既に崩じ謚号を贈られている皇帝に対して、尊号(謚号)を追加できる制度でした。後代の皇帝が自分の権力を誇示するために次々と上尊号を行ったため、謚号は時代が下るにつれて次第に長くなっていきました。例えば、唐の初代皇帝の高祖(李淵)が崩じたとき、謚号「大武」だけでしたが、3代皇帝の高宗(李治)の時に「神尭」と改め、第6代の玄宗の時に「大聖大光孝」と加えたために、最終的には「神尭大聖大光孝皇帝」となりました。唐の宣宗は18文字、北宋の神宗は20文字、清の太祖に至っては最長の25文字となってしまいます。

なるほど。帝号のインフレは武則天のせいだったのか。どーりでそれ以前には見当たらなかったはずだ。あと、これによると清でも同様な帝号があったこともわかる。

このため、唐代以前は謚号で呼ばれる皇帝が多かったのですが、唐代以降は余りに長すぎる謚号が呼称としては不便なものになってきたので、廟号や年号をもって称される事が多くなりました。唐代以前より、謚号本来の意義は薄れてはいましたが、唐の則天武以降は単なる文字の装飾品に堕したといっても過言ではありません。

だねえ。



長々と書いてきたが、諡号についてわざわざメモっておきたくなった理由は、唐三代高宗の帝号にある。

天皇大聖大弘孝皇帝

かく、「天皇」というのも、もともとは諡号だとか。知らなかったから面白かった。

*1:則天大聖皇后というのもあった。他に武周皇后とも?

*2:いわゆる武則天則天武后)である。念のため

*3:となると、「周」の皇帝ではあっても「唐」では皇后でしかない武則天にも「廟号」はないということかな。

*4:知らなかった!!そういえば唐代の帝号も、「皇帝」の前に「孝」の字がついているのが多いね。