英文解釈教室 伊藤和夫

持ってたなあ。読んだ記憶はある。ということで、このサイトより:

ハードSFと戦争と物理学と化学と医学「予備校の英語 伊藤和夫

彼は、この本の中で、「実践的な英語力」「文法用語を使わない教授法」「和訳せずに直読直解」「文書を読み解くよりも、オーラルコミュニケーション能力が重要」といった、素人くさい主張を一蹴している。
 教室内で語学を教えねばならないという制約の中では、ネイティブがやっているように日常経験から文法ルールを導き出すことは不可能であり、頭から文法を詰め込んで、それを個々の文章や作文に適用するしかないという。
 また、”訳読法批判”についても、伊藤は再反論している。「直読直解」などというが、実際に読めているかどうかを確かめるには、和訳させるしかないではないか。訳させることによって意味が歪むことは避けられないが、それは看過するしかない。


 種々の欠点はあるにせよ、文法用語を使って文法概念を頭に詰め込み、それを使って和訳させるという、従来の教授法が、教室でできる最良の語学教育であり、リーダーとグラマーを一緒くたにして、さらにそこにオーラルコミュニケーションを詰め込んだ現代の高校英語教育は、高校生の語学力を低下させていると彼は結論している。

これは、わかる。特にある程度堅い文章を読むような場合には、文法用語を用いて複雑な修飾関係にある文を読解する能力がないと、結構きつい。ただ、「リーダー」までパズルのような「グラマー」にしてしまって、結果的に読む文章量が減ってしまうのはどうなんだろう。


たとえば、グラマーはグラマーとして残した上で、意味のキーとなる部分に適当な文法要素を散りばめたようなテキストを用いて「直読直解」をリーダーとして行えば、和訳無しでも一定成果は得られるんではないのかなあ、と想像してしまう。「リーダー」にまで全訳を求めていくのは、ちょっとやり過ぎだろう。


この辺りまで来たところで、ふと気づいた。昔の教育は、基本的には枠組を作って上げるだけだったんじゃないだろうか。最終的に得たいのは田畑の実りであっても、学校教育で行うのは、灌漑のための溝を掘って上げる事まで。何の種を蒔き、どういう作物を得たいかということ、そしてそれ以前の段階である、実際に掘られた溝に水を流すことも、各自の役割だったんではなかろうか。


ただ、現代において求められているのはそこではないのだろう。学校教育だけである程度完結したものが求められている。その一方で、堅い公文書や哲学書まで読みこなせる能力は、万人には必要ないから求められていないのかな。


ただ、それはそれとして、やはり伊藤和夫の考える「語学力」もまた、大きく偏っているように思う。聖書やコーランを一言一句精読するための能力だけが語学力ではないのだ。彼のやり方は、時間をかけて和訳する能力だけに特化したものを作り上げてしまう。母語で考えてみても、哲学書などを精読する能力と、普通に新聞や小説や雑文やブログを読み、自分の考えと照らし合わせるなりして、その感想をちょちょっと発信する能力は、また別だろう。しかも、オーラルではまさしく「直聴直解」が求められているんだから、そのスキルを一切顧みないというのもどうかと思う。